■.長髪の彼との出会い

(組織潜入前の赤井さん×年上公安夢主)


 日本への武器密輸の疑いがある、米国のとある貿易会社。その内情を探るべく、私は公安として日本の大手製薬メーカーの出向社員に扮して潜入していた。

 大手製薬メーカーを名乗っているのは他でもない、数十年前から公安も密やかに追っている“例の組織”の存在があるからだった。私はあえて“組織”の存在をチラつかせ、この貿易会社を探る。私をそちら側の人間だと思わせられれば、武器密輸に関する情報に近づけるはずだ。しかし少しでもその匙加減を間違えれば、逆に私の存在が“組織”に知られてしまう。だからこそ慎重に任務に当たっていたのに。

「何……してるの?」

 朝、出社しようと滞在先のホテルを出ると、路肩に黒のシボレーが停まっていた。助手席側に背を凭れるようにして立っていたのは、黒髪で長髪の男。

「今日は随分と遅いな。行き違えてしまったかと思ったぜ」

 ギラリと、光ったように見えたその瞳は翡翠色。澄んだ瞳は眩しいくらいにフレッシュなエネルギーを感じるのに、同時に獲物を狙っているような鋭さも秘めているようにも見える。数日前、会社の休憩室で私に声をかけてきた彼はインターンだと言っていたけれど、それにしては肝の座った子だ。

「……何の話?迎えを頼んだ覚えはないんだけれどな、」
「行き先はどうせ同じだ、乗っていけよ」

 彼は助手席を開けて、車内に乗り込むよう顎で促している。その傲慢な態度と話し方は、直した方がいいと思うけれど、ここはアメリカ。何より出向社員であり尚且つ潜入捜査中に私にとって、彼が社会人としてどう振る舞おうと全く関係のないことだ。

「私、このホテルに滞在しているなんて君に話してない筈なんだけど……」

 彼の目的が一向に見えてこない。シャツを腕まくりした彼の腕は上質な筋肉に包まれ、肌は健康的に焼けている。大学では恐らくスポーツをしていたのだろう、鍛えられたその体は貿易会社のインターンには似つかわしくない。シャツのボタンを二つほど開けており、そこから覗く雄々しい鎖骨は元々の体格の良さを表していた。

「俺はこの先のアパートに住んでいる。近所だったから、待てば会えると思ってね」
「……私の話、聞いてた?」
「同じ日本人の血が流れるもの同士、馴れ合うくらいいいだろう?」

 ほら、乗れよ、と彼はシボレーを数回叩く。どうしても私と話がしたいらしい。どうやら厄介な子に絡まれてしまったようだ。目の前の彼がインターンではなく、会社役員などであれば良かったのに。そうしたら踏み入った話が聞ける。正直、君に付き合っている場合ではないのだ。

「っ、ちょっ、と!」

 断りの言葉を考えていたら、彼は流れるような動作で私の手首と腰を捕えた。紳士的なエスコート、と言えば聞こえはいいけれど、逃す気はないという雰囲気を何処となく感じるような強引さがある。

「道が混むかもしれん、いいから乗っておけ」

 そう言って助手席に座らされる。もちろん、彼を制圧しようと思えば出来るけれど、彼も私も一貿易会社の出向社員にすぎない。か弱い、ごく普通の日本人女性を演じるには仕方なく言うことを聞くしかなかった。

「あんまりスマートなやり方には思えないけれど」
「だが、こうして乗ってくれたじゃないか」
「いや、これは乗ったというより……」

 乗せられている、と、その言葉は半分エンジンの音に掻き消されてしまった。

 全く、休憩室で少し会話した程度なのに、私の何に興味を持ったのだろうか。私は機嫌の良さそうハンドルを握る彼の横顔を見ながら、しばらくその真意を図ろうとしていた。

「どう思う?」
「え?……何が?」
「見定めてくれているんだろう? 俺のことを。現時点で、どうだろうか」
「……もしかして好印象だとでも、思ってるの?」
「だが、そこに座ってからずっと俺のことを見てくれているじゃないか」
「……はい?」

 本当に、どこまでも自信に満ち溢れている。きっと今まで落とせなかった女の子は居なかったんだろう。でも申し訳ないけれど、君がどう頑張ったところで私が靡く事はない。私には重大な任務があるのだから。

「あのさ……?乗せてくれるのは有り難いんだけど、私……」
「アンタはまたこの車に乗ることになる」
「……はい?」
「俺は、狙った獲物は逃さない性分でね」

 彼は私の言葉を遮りながら、不敵な笑みを浮かべた。揶揄っているのかと、彼の言葉を流そうと思ったけれど、しかしあまりにも真っ直ぐ射貫くように前を見つめている瞳は信念に突き動かされているような強さがある。

「君は……」
 
 その姿に一瞬引き込まれそうになるけれど、今の発言を改めて冷静に咀嚼すると少し笑ってしまう。

「なんか……かわいいね」

 敢えて、私が君に落ちることはないよと遠回しに伝えてみると、彼はあからさまに眉間に皺を寄せた。かわいいなんて言われたのは初めてだったんじゃないだろうか。私の返事が予想外だったのか、さっきまだ饒舌だった彼が口籠もっているから少し面白かった。無事に主導権を握れたようで安心もした。

 少々厄介な子に目を付けられてしまったと思ったけれど、こうやってうまく手懐けてしまえばいい。そうして私は、彼を自分の手に負える相手だと油断していた。

「ねえ……今日、休みなんだけど?」

 あれから数週間、私は彼の宣言通りシボレーの助手席に乗って出社することが増えていた。そうして彼の好意を利用して、私は会社で彼にあるお願い事をしている。

 それは一見すると、普段の業務内容を少し横着するような依頼。でも実際は内部調査をするための細工が施してある。彼は全く気づくことなく、私との内緒のやり取りを喜んで引き受けてくれていた。

「ねぇ、聞いてる……?君と会う約束もした覚えはないし」

 今日は公安として内密に動く計画をしていたのに、ホテルのロビーで待ち構えられていてはため息も漏れてしまう。室内なのに、サングラスまでして。

「ああ、そうだな」
「じゃあなんで、っ」
「なあ……」

 彼はサングラスを外しながら、翡翠色の瞳を私に向ける。口元は、僅かに弧を描いていた。

「俺と遊んでくれよ……お姉さん?」

 思いもしない誘い文句に、ドキリと胸の奥が揺れる。何言ってるの?と言い返すべきなのに、言葉が出てこない。

 彼はそんな私の心境が分かっているのかいないのか、不敵な笑みを浮かべたまま数歩近づいてきた。サングラスを胸元に差し、その長い足で私の元へとあっという間にやってくる。

「な、っ……なに、言って、」
「いいだろう?これまで十分、尽くしてきたんだ」

 ワザとなのか、体格の差を見せつけるように屈まれると、視線が泳いでしまった。マズイ、飲まれるな。大学を出たばかりの彼に、押されてどうする。

 気持ちを立て直して彼を見上げるけれど、出てきた声はなんとも頼りなかった。

「……今日は、忙しい、から、っ」
「ホォ〜?だが出かけるんだろう?足になってやる」
「っ……人と会うの、だから無理」
「嘘だな。本社へ行くのだろう?」

 その言葉に身体がびくりと反応する。動揺を悟られないように意識を集中させるけれど、ごくりと唾を飲んでしまったのは失態だ。頭の中では警告音が鳴り始める。私は何か、彼を図り間違えている……?

「え、なに……怖いんだけど」

 まさか、探られているのだろうか。そんな事はないと思いつつも、ここで私に残された道は極めて一般的な日本人女性を演じることしかない。背中に冷や汗が流れるのを感じながら、私は彼に対して警戒心を露わにした。

「フっ……」
「……え?」

 すると彼は鼻で笑って、私と距離を取った。さっきまでの異様なオーラが、嘘のように消えていく。

「ただのハッタリさ。そうあってほしい願望も込めてな」
「……なに、それ」
「鞄がいつもと同じだ。それは良いヒントになったよ」
「ああ……そう、」
「それで?当たりか?」

 脅かさないでよと思いながら、彼への返事を考える。本当は誰にも気づかれないように、本社、正確にはある役員の部屋へ侵入するつもりだった。でも意外にも鋭そうな彼に、今更違うと言って逃げ切れるだろうか。

 その一瞬の隙に、彼が私の右手を取る。ハッとした時にはもう、指を絡めるように握られていた。

「なあ……」
「っ……な、なに、っ?」
「ナイショ話を、しようじゃないか」

 耳元で囁かれたその声は、悪魔の囁きにも聞こえる。吐息混じりの低音が身体の奥に響いた。いつの間にか腰にも手が回されていて、ぐっと距離が縮まる。

「どうしてアンタは、黒い服しか着ないんだ?」

 その瞬間、身体が支配されてしまったかのように動けなくなった。どうやら私は、とんでもない人に見つかってしまったのかもしれない。堪らず顔を上げた瞬間、私は深い翡翠色の瞳に捕らえられ、息が吸えなくなっていた。

「さあ、車で話を聞かせてもらおうか」

 死刑宣告にも似た彼の言葉に、私は返す言葉が見つかりそうになかった。